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ゴジラ-1.0 ~終わらない戦争の体現、絶望の化身~

ゴジラ-1.0、短いながら感想と考察。以下、ネタバレ注意。

今までで一番「恐い」ゴジラ

今作のゴジラはとにかく恐かった。何が恐いって、明らかに人間を狙ってきている。島に現れたときは頭を地面すれすれにしてまで人間を見ていた。人間の上半身にがぶりと食いつき、飲み込まずに放り投げたのは、目的が「捕食」ではないことを如実に表していた。

島の時点でも十分恐かったが、巨大になって再来するともう手がつけられない。小船程度なら一瞬で破壊。敷島たちが乗る船を見ると執拗に追ってくる。機雷も機銃も、外側からの攻撃はほぼ無効。口内で機雷を爆破してようやくダメージを通せたが、なんと再生安田「こんなんありかよ!?」その後、やってきた大船・高雄も一瞬で沈めてしまった。このシーンを見た私、若干泣いた(ガチ)。泣いたというより自然と涙が流れてきた。

銀座襲来シーンは絶望感の塊である。ゴジラが歩くだけで地面がもちあがり、逃げ惑う人々はほんの一瞬のうちに踏み潰される。ただまっすぐ移動するのではなく、建物を壊したり、電車を襲ったりしているのが、やはり意図的に人間を狙っている感がある。そして流れ出すゴジラ上陸のテーマとゴジラのテーマ。「これがゴジラ」なのだ、本当に。

やがて尻尾の先から順に背びれがガコン、ガコンと展開し蒼光を放つ。確実にまずいのが来る、そうわかっていても止める手段など無い。放たれた熱線は着弾点を大爆発させ、仮にそれを回避できても、数秒後にすさまじい風圧が吹き荒れて地上のものを全て消し飛ばす。空を覆う煙を背負って佇む様子はまさに絶望の化身

映像の画角にも注目したい。シン・ゴジラではゴジラの目線と同じくらいの高さから映すカットが多かったが、今作では低いところから――つまり人間の視点からのカットが多かった。数値上の体長がシン・ゴジラの1/2以下であるにもかかわらずあれほどの絶望感があるのは、この画角の効果もあるかもしれない。

今作のゴジラは、ハリウッド版GODZILLAのようなヒーロー性は有していない。ただひたすら壊しに来るのだ。人間を、そして人間が作ったものを、全て。まさに初代ゴジラの回帰と言える。

終わらない戦争の体現

戦争の直後に襲い来て、復興途上の日本を破壊するゴジラを、私は「終わらない戦争の体現」として解釈した。分かりやすいのは銀座の熱線シーンだ。爆発と爆風がもたらす二度の破壊。もうもうと立ち上る煙。降り注ぐ黒い雨。そして後に残される放射性物質。――原爆が銀座に落とされたのである。

ガコンガコンと機械的に動く背びれも、何かの兵器のように見える。もしかしたら具体的なモチーフがあるのかもしれない。兵器に詳しい人、是非コメントで教えてください。

それから、あの驚異的な再生能力についても考察できる。ラストシーンではばらばらになったはずのゴジラが再生する様子を見せていた。映画の演出として見ると「あるある」だ。しかし、人々があれだけ手を尽くしても絶命しない点に注目すると、まるで戦争のようではないか。実際、現在も世界で戦争は起こっている。

「そうは言っても日本に戦争は無いじゃないか」確かにそうだが、現在平和な日本で、いつかまた戦争が起こる可能性を誰が否定できようか? 戦争ゴジラは今まさに海の中で再生しながら、再び上陸する時を待っているかもしれない。

……とかっこつけたところで小休止。「災害」の象徴たるシン・ゴジラと「戦争」の象徴たる今作のゴジラについて、そのを比較してみたい。

シン・ゴジラの眼は小さく、ほとんど動かないため、何を考えているのかわからない不気味さがあった。意志が読めない眼は、意志が存在しない自然災害を象徴するシン・ゴジラにぴったりだ。

対して今作のゴジラの眼はそれなりに大きく、そしてずっと人間を見つめていた。シン・ゴジラも下にいる人間を見ていることが示唆されていたが、それは「見下ろす」ようなもので、人間との間には距離があった。今作のゴジラは確固たる意志をもって人間を「見つめて」いたような気がする。船を追ってくるシーンが分かりやすいが、人間との距離も近かった。その眼に意志が宿っているとすれば、人間が意図して始める戦争との関連性を見出せるだろう。

まあ、こじつけかもしれないが。

その他考察と余談

終盤、典子が生きていたというシーンで、彼女の首には黒い痣があった。これについて他の方の考察も見たが、概ね「G細胞説」「放射能の後遺症の象徴」の2説に分かれている。私は最近のゴジラ作品しか観ておらずG細胞には詳しくないため、ここでは解説しないが、典子が生き残れた理由などと結び付いていてけっこう面白い説だ。

2つ目の、放射能の後遺症の象徴という説はかなりしっくりくる。ゴジラ放射能を発する肉片を多く残していた。影響が無い方がおかしいくらいだ。直後にあるゴジラが再生する描写と併せて考えると、先ほどとは別の意味で「戦争は終わらない」――つまり、生き残った人々も戦うことを余儀なくされる、ということかもしれない。

それから、ゴジラを倒した後の敬礼について。これについては賛否両論というか、結局戦争賛歌になっていないか? という意見もあったりする。ただ、今作のゴジラにはクロスロード作戦で被爆し、その傷を再生しきれずに異常な成長を遂げ、巨大化したという設定がある(らしい。ソースはパンフだろうか?)。

そう考えると、ゴジラもまた戦争の被害者と言える。というより、戦争の加害者としての性質も被害者としての性質も内包した「戦争の亡霊」と喩えるのがいいか。その死に対して敬礼をするというのは、こと戦争を経験してきた彼らにとっては、自然なことだったのかもしれないと思う。

最後に余談だが、巷では今作が「シン・ゴジラを越えた」ともてはやされている。個人的その言い方はちょっと気に食わなくて、2つの作品ではテーマが全く違うのだから、越えたとか越えないとかいう話をするものではないのでは? と思ってしまう。要するにそういう言葉で目を引くYouTubeのサムネが良くない。まあ、テーマ性と作風が違うゆえに、今作の方が「見やすい」人が多いかもしれない。

今作と『シン・ゴジラ』について、この記事では画角や眼を比べてみたが、他にも色々比較してみると面白そうだ。まだ観ていないという方は是非『シン・ゴジラ』の方もご覧いただきたい。難しいことを考えずに怪獣が大暴れするのを見たい、という方にはハリウッド版GODZILLAがおすすめ。どのゴジラにもそれぞれの良さがあると私は思っている――ちょっと優柔不断が過ぎるだろうか?

少し短いが、感想や考察など書かせていただいた。何か思い出したらまた追記するかもしれない。